@article{oai:u-ryukyu.repo.nii.ac.jp:02005200, author = {川平, 成雄 and Kabira, Nario}, issue = {78}, journal = {琉球大学経済研究}, month = {Sep}, note = {第二次大戦・沖縄戦は、多くの若者の命を奪い敗戦後の経済復興にとって大きな障害となった。沖縄は、貴重な労働力を欠きながら、無に等しい中から復興への道を歩みはじめる。経済復興のためには労働力の確保はもちろんのこと、住宅の確保も重要な課題であった。労働力の場合は、南洋諸島および戦地などからの引き揚げ者によって何とかしのげたが、問題は住宅にあった。そこで、沖縄諮詢会と米軍政府は、「慣れた職人だと1時間もあれば建てられるという」大量生産方式の規格屋(キカクヤー)を生み出し、1945年10月から住宅の建設に取りかかる。規格屋(キカクヤー)といわれる所以は、住宅が同じ形・同じ大きさをしているからである。また「トゥ・バイ・フォー」とも呼ばれた。それは規格屋の軸となった木材が、「2インチ×4インチ」であったので、アメリカ読みに「トゥ・バイ・フォー」となったのである。現在でも、沖縄の大工仲間では「トゥ・バイ・フォー」の呼び名が生き続けている。収容所から、生まれ・育った島へ・村へ帰るのは、何にも変え難い願いであった。だが、ここには制約があった。宅地や耕作に適している「平らな土地」は、曰本軍によって強制的に収用されていた土地であり、それを米軍は、軍事的な目的から囲い込んでいたのである。このような場所に雨露をしのぐ家を造り、土地を耕し、生活をしろというのか。特に、伊江島の住民は、難渋を極めた。1945年5月には遠く離れた沖縄本島南方の洋上に浮かぶ慶良間列島の慶留間島と渡嘉敷島へ2100人が強制的に移動させられ、さらに彼らは翌46年4月には沖縄本島北部の本部町と今帰仁村へ分離されて強制移動させられた。彼らがようやく島に帰ることができたのは、47年3月になってからのことであった。沖縄戦によって、ほとんどすべての生産基盤・生活基盤を失った住民にとって、立ち上がる「基底」にあったのは、「死んだ者のために何ができるのか」であった。だからこそ沖縄「戦後」の苦難に耐え、明日への希望へとつながる日々を死に物狂いで生きるのであった。無に等しい状況の中からの経済復興は、ほぼ全面的に米軍政府に依存しなければならなかった。だが、米軍政府の基本方針は、可能な限り、沖縄の資材ならびに沖縄の労働力を利用することにあった。なぜなら,アメリカ本国政府の財政構造は、軍事費の驚くべき増加によって、すでに破綻に近い状況に追い込まれていたからである。, 紀要論文}, pages = {57--80}, title = {人の動きと経済復興の始まり}, year = {2009} }