@techreport{oai:u-ryukyu.repo.nii.ac.jp:02007655, author = {得能, 壽美}, month = {Oct}, note = {琉球八重山の集落は、古い時代から一所にまとまっており、人々は集落を移転しても同様に一箇所にまとまって暮らしてきた。一方で、耕地は集落から遠く、村境を超えて存在した。民家は集中し、琉球八重山の集落は、古い時代から一所にまとまっており、人々は集落を移転しても同様に一箇所にまとまって暮らしてきた。一方で、耕地は集落から遠く、村境を超えて存在した。民家は集中し、耕地は拡散していたのであるが、耕地のあり方は地割制度にも影響を与え(受け)たもので、拡散することによって、そもそもの地味などの環境や、大風(旱魃)・大雨(洪水)といった農耕に対する災害リスクを分散していたということができる。八重山の集落の歴史的な展開は、考古学の成果などにより明らかになってきている。しかし、なぜ一箇所に集中して暮らしたのかという問はなされていないように思われる。とくに、八重山の集落は、1771 年明和津波(「宮古八重山津波」)に代表される地震・津波など、何度かの自然災害にみまわれている。明和津波においては、石垣島の東海岸に面する集落に大きな被害が出た。東というのは津波の波源が石垣島の南東にあったことによるもので、石垣島東海岸はさらに河川の発達がみられ、河口部で珊瑚礁の切れ目が生じて津波が浸入するのだが、そこに集落が立地していたのである。小稿では、八重山の集落が災害リスクにどのように対応したのか、明和津波で被害を受けた村(集落)の移転問題から検証してみた。結論からいえば、石垣の中心部で被害を受けた石垣四か村(集落)をはじめ、東海岸の集落はいったん標高の高い土地に移るが、のちに海岸部の旧地に戻って、人々は一箇所にまとまって暮らしている。このような災害リスクを分散するには、低地ではなく高地に、集中ではなく拡散して暮らすべきであろう。耕地が拡散しているのであるならば、人家もそれに応じて(耕地の近くに)暮らすべきだという意見が、第二次大戦中の増産体制のなかで叫ばれるのだが、八重山地元からの明確な返答はない。もっとも、前近代においては地割によって耕地が割り替えられるのだから、「耕地の近く」というのは決定的ではないのであるが。いずれにしても、歴史的な変遷や大きな災害をこうむってもなお、立地条件のみならず、村民は一箇所にまとまって暮らすことをやめなかったのである。それについては、いくつか理由を推測することができた。, 研究報告書}, title = {八重山の集落形態と災害リスクへの対応―明和津波後の集落移転と与那国島の例―}, year = {2013} }