@techreport{oai:u-ryukyu.repo.nii.ac.jp:02007659, author = {深澤, 秋人}, month = {Oct}, note = {近世琉球の首里王府は、王府財政の財源を確保し、薩摩藩への仕上世上納に対応するため、黒砂糖やウコン、あるいは反布などの特産物を地域ごとに割り振り、管理生産をしていた。琉球社会の民衆は王府から年貢(穀物)を賦課されるとともに、特産物の生産を労役として課されていたのである。沖縄島の西方に位置する久米島には紬が割り当てられ、管理生産体制は18世紀前半に成立した。紬の製作やその原料である綿子(=真綿)の生産のほか、桑の栽培、蚕の飼育、染料(ウコンなど)の確保なども男女の民衆に課された負担であった。綿子には、紬の原料分と王府に上納するものがあった。18世紀中頃にかけて、久米島周辺の渡名喜島、粟国島、伊平屋島、慶良間島にも段階的に綿子の生産が割り当てられ、上納が開始される。ところが、久米島の人口は18世紀中頃以降に大幅に減少する。具志川間切の総人口は、1744 年には3,963人であったものの、1847 年には1,255人まで減っている。また、久米島両間切では、1780年頃には7,000~8,000人程であった総人口が1855年には2,500人まで減少している。要因として、具体的な時期を示していないものの、「上江洲家文書」などでは流行病や飢饉、『琉球王国評定所文書』では津波や旱魃などの災害をあげている。両者のあいだに差異があることを指摘しておきたい。減少した人口のなかには紬の製作や綿子の生産を担っていた年齢層も含まれていた。久米島では、紬の原料である綿子を自給できない事態に陥る。王府は、災害により久米島で綿子が自給できなくなったため、19世紀前半以降、周辺の島々から組織的に綿子を供給する体制を再構築する。周辺の島々を久米島への綿子供給地として位置づけ直したといえよう。久米島に近い慶良間島や渡名喜島よりも、粟国島が安定した供給源となっていること、さらには、慶良間島に替わり伊平屋島が見いだせることを指摘しておきたい。今後の課題として、当該時期の周辺の島々、特に慶良間島と渡名喜島の地域社会の状況を災害の有無と関連づけて検討する必要性をあげておきたい。, 研究報告書}, title = {久米島周辺における綿子生産体制と災害}, year = {2013} }