@techreport{oai:u-ryukyu.repo.nii.ac.jp:02007661, author = {川島, 淳}, month = {Oct}, note = {沖縄戦によって、首里・那覇の都市などは壊滅した。また地域住民も北部や南部などで米軍に収容され、他地域での生活を余儀なくされたが、1945年10月に米軍は壺屋と牧志を開放して居住を認め、漸次米軍の軍用地の一部を開放した。他方、那覇市は、1954年に首里市・小禄村と合併し、1957年に真和志市と合併した。こうした軍用地の開放と市町村合併によって都市計画事業が遂行されて、「大那覇市」が形成されて、現在に至っている。また、那覇市内には、安里川や久茂地川、ガーブ川などが流れている。この三河川の沿岸地域では、1950年代から1960年代にかけて、豪雨や台風のたびに河川が氾濫し、水害被害が相次いだ。そのため、水害対策のための河川改修工事を実施することが、「大那覇市」形成にとって重要な政策の一つともなったのである。そこで、本稿では、那覇市の政策構想に焦点をあてつつ、那覇の都市計画における水害対策計画の変遷と、1957年の瀬長亀次郎那覇市長時代における水害対策関連事業をめぐる政治的駆け引きについて、次のように論述する。1950年8月1日制定の「那覇市都市計画条例」に基づいて、同年「那覇市都市計画案に就いて」が策定され、また1952年8月に那覇市建設部都市計画課は「那覇市都市計画概要」を作成し、さらには那覇市が招聘した石川栄耀は1953年7月に『那覇市都市計画の考察』を提出した。同年に「都市計画法」が制定されると、那覇市は、石川構想に基づいた「那覇市都市計画決定書案」を作成した。さらに、「首都建設法」の制定に伴って首都建設委員会が設置され、1959年12月16日に同委員長の瀬長浩は「首都建設基本計画」を公告した。これらの都市計画では、豪雨や台風による河川の氾濫を防ぐために河川改修工事が提示された。いずれの計画においても、那覇市内を流れる河川は雨期になると氾濫するので、安里川や久茂地川、ガーブ川の改修とともに、与儀農業試験場(現在の与儀公園)から漫湖までの排水路を設置するとの計画が提示された。したがって、1950年代の都市計画は一貫したものであり、基本的には大きな変更はなかったのである。1956年12月に瀬長亀次郎が那覇市長に当選するや、かかる事業計画の遂行に必要不可欠な民政府特別補助金や琉球銀行の復興資金が打ち切られ、また那覇市の資産が凍結された結果、那覇市は都市計画事業の遂行を中止せざるを得なかったのである。この措置は、瀬長亀次郎を辞職に追い込むためのものであった。このように、河川改修工事を含む都市計画事業は政治的駆け引きに利用されたのである。こうした状況のなかで、市民組織による期成会が結成され、久茂地川の浚渫工事を行った。しかし、この浚渫工事だけでは充分ではなかった。瀬長が市議会の不信任によって辞職した後のことだが、1958年2月5日から降り続いた雨による安里川やガーブ川の氾濫は、「戦前戦後最大の水害」と言われるほどの水害被害となったのである。その結果、1965年までの間に、安里川とガーブ川の河川改修工事が進んだのである。, 研究報告書}, title = {1950年代における那覇の都市形成と水害対策に関する覚書―那覇市の政策構想に焦点をあてて―}, year = {2013} }